北条氏康は管領の嫡子龍若丸を殺す(残酷なようだが下剋上の世の常)が、妻鹿田一統に褒美を与え家臣として重用するどころか、全員不義を理由にして誅殺してしまったという。憲政は長尾景虎を養子に迎え、家督を譲ったため上杉景虎→上杉謙信が誕生することとなる。
国道一号線沿いの山王小学校のそばにある
山王小学校の手前黒い車の後ろ側の祠が龍若丸の墓
本当に小さな祠で、説明板が無ければ見落としてしまう
関東管領平井城主、山内上杉憲政(のりまさ)の嫡男、龍若丸(11才又は13才)は天文20年(1551) 平井城落城前、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣6人とともに、 小田原に出向いてきた。
氏康は、龍若が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治部右衛門に首を 刎(はね)ることを命じ龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられた。
龍若を斬殺した神尾治部右衛門は、癪病にかかり、まもなく死亡した。
これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。 (と書かれている)
五輪塔7基中、中央最大が龍若丸の墓、他は従臣の墓
歴史上の有名人にはよくあることだが、龍若丸が北条の手に落ちるまでのいきさつや、死因についても処刑もしくは逃亡の末の自刃など様々な説がある。伊豆市妙高山最勝禅院にも龍若丸の墓がある。
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