2017年6月28日水曜日

上杉龍若丸の墓

 上杉龍若丸と聞いてピンとくる人は、戦国時代に大分のめり込んだことがある人だろう。上杉龍若丸は関東管領上杉憲政の嫡子で、天文21年(1552年)1月、憲政が相模の国の北条氏康に敗れ、居城の平井城から越後の長尾景虎の元へ逃れた。このとき11才(13才とも?)の龍若丸は御嶽城にいたという。御嶽城は3月に落城し、龍若丸の身柄は寝返った重臣妻鹿田新助(龍若丸の乳母の夫)によって北条方へ引き渡され、彼らは龍若丸を手土産に小田原方へ投降した。
 北条氏康は管領の嫡子龍若丸を殺す(残酷なようだが下剋上の世の常)が、妻鹿田一統に褒美を与え家臣として重用するどころか、全員不義を理由にして誅殺してしまったという憲政は長尾景虎を養子に迎え、家督を譲ったため上杉景虎→上杉謙信が誕生することとなる。

国道一号線沿いの山王小学校のそばにある

山王小学校の手前黒い車の後ろ側の祠が龍若丸の墓

本当に小さな祠で、説明板が無ければ見落としてしまう


 関東管領平井城主、山内上杉憲政(のりまさ)の嫡男、龍若丸(11才又は13才)は天文20年(1551) 平井城落城前、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣6人とともに、 小田原に出向いてきた。
 氏康は、龍若が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治部右衛門に首を 刎(はね)ることを命じ龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられた。
 龍若を斬殺した神尾治部右衛門は、癪病にかかり、まもなく死亡した。
 これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。         (と書かれている)




五輪塔7基中、中央最大が龍若丸の墓、他は従臣の墓

 歴史上の有名人にはよくあることだが、龍若丸が北条の手に落ちるまでのいきさつや、死因についても処刑もしくは逃亡の末の自刃など様々な説がある。伊豆市妙高山最勝禅院にも龍若丸の墓がある。

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