2017年6月30日金曜日

伊東園ホテル熱海館

 3月下旬に泊まった伊豆長岡金城館の印象が良かった(3月31日の本ブログで紹介)。格安の宿泊料にしては設備・備品もそれなりで、食事がバイキングというだけでなくアルコール類も飲み放題だった。ビールはスーパードライ・日本酒は花の舞という静岡(浜松)の地酒が飲める。伊藤園ホテルズグループのファンになってしまった。
 GWの熱気も冷めた5月下旬、伊東園ホテル熱海館に泊まってみた。結論から言うと安かろう悪かろうで期待外れ(ある意味想定通り)だった。東京から近い有名温泉地というだけで価値があるのかもしれない。熱海駅から駅前アーケードの中を歩いて数分という立地の良さは捨てがたいものがある。しかし、温泉宿なのに風呂が貧弱すぎる。先客が数人いたら体も洗えない。夕食時の日本酒も紙パックのものだったので、ビールだけにしたが長岡の時ほどおいしくは感じなかった。
 東京から新幹線で一発で来れる手ごろな温泉地だけに、これでもお客さんは多いようだ。ただし、言葉を交わした方によれば、〇〇は良かったとか△△も良かったとか言われる場所は、西伊豆や南伊豆だった。交通の便とサービスは反比例するようだ。

駅前アーケードの中にホテルの入り口はある(雨の日はありがたいかも)

ツインの部屋はビジネスホテルより広くて快適









夕食の食べ放題・飲み放題にいざ出陣






朝食もバイキング

2017年6月29日木曜日

夏野菜の収穫始まる

 いよいよ待ちに待った夏野菜の収穫が始まった。今のところナスとミニトマト・中玉トマトが順調だが、ピーマンとインゲン・エダマメも実ができ始めている。ソラマメの後にひと月遅れで植えたキュウリも遅ればせながら花をつけ始めた。7月は食卓が賑わうことだろうと期待している。

6月10日の収穫 

 6月15日の収穫

6月18日の収穫

6月22日の収穫

6月25日の収穫

2017年6月28日水曜日

上杉龍若丸の墓

 上杉龍若丸と聞いてピンとくる人は、戦国時代に大分のめり込んだことがある人だろう。上杉龍若丸は関東管領上杉憲政の嫡子で、天文21年(1552年)1月、憲政が相模の国の北条氏康に敗れ、居城の平井城から越後の長尾景虎の元へ逃れた。このとき11才(13才とも?)の龍若丸は御嶽城にいたという。御嶽城は3月に落城し、龍若丸の身柄は寝返った重臣妻鹿田新助(龍若丸の乳母の夫)によって北条方へ引き渡され、彼らは龍若丸を手土産に小田原方へ投降した。
 北条氏康は管領の嫡子龍若丸を殺す(残酷なようだが下剋上の世の常)が、妻鹿田一統に褒美を与え家臣として重用するどころか、全員不義を理由にして誅殺してしまったという憲政は長尾景虎を養子に迎え、家督を譲ったため上杉景虎→上杉謙信が誕生することとなる。

国道一号線沿いの山王小学校のそばにある

山王小学校の手前黒い車の後ろ側の祠が龍若丸の墓

本当に小さな祠で、説明板が無ければ見落としてしまう


 関東管領平井城主、山内上杉憲政(のりまさ)の嫡男、龍若丸(11才又は13才)は天文20年(1551) 平井城落城前、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣6人とともに、 小田原に出向いてきた。
 氏康は、龍若が幼稚であったが大敵の嫡男のため、家臣の神尾治部右衛門に首を 刎(はね)ることを命じ龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられた。
 龍若を斬殺した神尾治部右衛門は、癪病にかかり、まもなく死亡した。
 これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしました。         (と書かれている)




五輪塔7基中、中央最大が龍若丸の墓、他は従臣の墓

 歴史上の有名人にはよくあることだが、龍若丸が北条の手に落ちるまでのいきさつや、死因についても処刑もしくは逃亡の末の自刃など様々な説がある。伊豆市妙高山最勝禅院にも龍若丸の墓がある。

2017年6月27日火曜日

新田義貞の首塚

 梅雨の間は雨が降っていなくても安心はできない。天気が変わりやすいので一時間後には本降りということもあり得る。よっぽど晴天の予報でない限り、あまり遠出はできない。家からさほど遠くない場所を自転車で徘徊していると、思わぬものに出くわすことがある。新田義貞公の首塚もその一つだ。

首塚は小田原東高校の近くにある   変則十字路の信号名はいまだに旧校名だが・・・

小田原東高校の正門前を南に向かう

次の十字路に案内標識がある

行き止まりのただの駐車場に着いてしまったと思えば・・・

首塚の説明が書かれている

 建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、
足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は主君義貞の晒首を奪い返して
領国三河に
往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため、東海道を下った。
 しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまった
という。そこでやむな
く義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。
しかし、近年地元有志によって復興整備され新田義貞の首塚の碑も建立された。
 なお、北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。


駐車場の脇の径を行くと小さな公園があり、その左手奥に首塚がある


左右に10基ずつ並んだ五輪塔の由来はわからない

これが首塚

首塚の碑
当然のことながら新田義貞公の墓や首塚は複数存在するという。

2017年6月26日月曜日

北条家の菩提寺 早雲寺

早雲寺は臨済宗大徳寺派の寺で、山号は金湯山なので「金湯山早雲寺」と呼ぶのが丁寧な呼び方か?
 創建は大永元年(1521)、開山は以天宗清(いてんそうせい)和尚、 開基は北条氏綱公となっている。普段は建物の中は一般開放されていないが、11月3日の前後のみ曝涼(虫干し)を兼ねた寺宝と襖絵の特別公開が行われている(有料)。

惣門(通行不可)には金湯山の文字が見える



鐘楼

本堂


北条五代の墓は小高い場所にある



右より早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓

室町時代の連歌師 宗祇の墓