2017年6月27日火曜日

新田義貞の首塚

 梅雨の間は雨が降っていなくても安心はできない。天気が変わりやすいので一時間後には本降りということもあり得る。よっぽど晴天の予報でない限り、あまり遠出はできない。家からさほど遠くない場所を自転車で徘徊していると、思わぬものに出くわすことがある。新田義貞公の首塚もその一つだ。

首塚は小田原東高校の近くにある   変則十字路の信号名はいまだに旧校名だが・・・

小田原東高校の正門前を南に向かう

次の十字路に案内標識がある

行き止まりのただの駐車場に着いてしまったと思えば・・・

首塚の説明が書かれている

 建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)越前国(福井県)藤島で討死し、
足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は主君義貞の晒首を奪い返して
領国三河に
往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため、東海道を下った。
 しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまった
という。そこでやむな
く義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。
しかし、近年地元有志によって復興整備され新田義貞の首塚の碑も建立された。
 なお、北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。


駐車場の脇の径を行くと小さな公園があり、その左手奥に首塚がある


左右に10基ずつ並んだ五輪塔の由来はわからない

これが首塚

首塚の碑
当然のことながら新田義貞公の墓や首塚は複数存在するという。

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